チームであるということ

2014年10月26日

今日、一人の生徒が授業を休んだ。体調、その他の事情なら納得できる。しかし納得できない理由であれば話は変わる。
私は、今はやりの個別学習を否定しない。勉強は一人でするものである。
が、私はそれをとりいれようとは思わない。
まだ中学生という幼い時期に、決して楽でない受験をこなすという行為は、ともに頑張ろうとしている仲間があってこそ成り立つと考える。隣で、前で・・・後ろの席でともに頑張ろうとしている仲間を見て、感じる時、強くなれる。
もちろん一人一人の能力は必要不可欠ではあるが、それだけでは越えられない壁を崩す力を仲間は与えてくれるものである。

二期生も一期生を越える勢いで中学三年生=受験生に変わりつつあります。
だから、その中で一人でも道に迷ってほしくないのです。
それはその子自身のためでもあり、その子を『あだち塾』の仲間と認識し、時にはライバルとし、時にはその生徒を励みとしている仲間のためでもあるのです。
一つのピースが欠けても、『あだち塾 二期生』という題の絵は完成しないのです。
私が想う絵は、『一人は全員のためにあり、全員は一人のためにある』

二期生総勢27名。一名たりともかけることなく、各自の進路を目指し、達成してほしい。
その一人ひとりの小さな気持ちは、大きな流れとなり教室の活気を生み、彼らの連帯感をさらに強める。
一人ではできないことも、みんな=『あだち塾』ならできる!

たった一日の気の緩みが、その子自身のリズムを壊すこともあるのです。そして、生徒自身の自覚がない行為が、私の気持ちを引き裂くこともあるのです。

意味なく空いた机をみて残念無念の日でした。